上杉鷹山公の生涯
上杉鷹山(治憲)公は、宝暦元年(一七五一)七月二十日、日向国(宮崎県)高鍋藩三万石秋月種美の二男として、高鍋藩江戸屋敷に生まれました。母は筑前国秋月城主黒田長治(あきづきたねみつ 長貞)の娘春姫で、春姫は五代上杉綱憲公の娘豊姫を母としていました。鷹山公は幼名を松三郎続いて直松と改名し、十歳の時上杉重定公の養子となって直丸、勝興と改めました。十六歳で元服し、時の将軍徳川家治公より諱の一字をもらって治憲と名乗り、十七歳 家督を相続しました。鷹山という名を用いるのは総髪した五十二歳の時からです。
米沢藩は先祖に戦国時代の英雄上杉謙信公を戴く天下に聞こえた名藩でしたが、鷹山公が藩主となった頃は財政困難の危機に瀕していました。鷹山公はただちに藩政改革に着手し、藩の復興のために生涯を捧げることとなったのです。「民の父母」の和歌や春日神社・白子神社に納められた誓詞にその決意のほどを知ることができます。竹俣当綱や莅戸善政等を重用して、藩の経済再建を目標に積極的な殖産興業政策を実施しました。田畑の開墾、桑・楮・漆などの栽培、養蚕・製糸・織物・製塩・製陶など新産業の開発に力を入れ 自ら先頭に立って奨励につとめたのです。藩士に対しては質素倹約を自ら実践して示し、武術の奨励とともに、藩の学問所を再興し、興譲館と命名しました。
鷹山公は幼児期から藁科松伯・細井平洲等から儒学的教養を学んでおり、それは藩政に大きな影響を及ぼしました。三十五歳の若さで隠居し、治広公に家督を譲りましたが、その時治広公に贈ったのが「伝国の辞」と呼ばれる、国を治める心得です。その後文政五年(一八二二)、七十二歳で死去するまで十一代治広公・十二代斉定公の政治を補助・指導しました。鷹山公の生きた時代は、年号では宝暦、明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政の八世にわたり、徳川将軍は家重公、家治公、家斉公の三代でした。幕政も爛熟期から次第に崩壊期へと向かっており、財政逼迫は米沢藩だけの問題ではなく国中諸藩等しく衰退の道をたどりつつあったといえましょう。その中での鷹山公の取り組みと成果が名君と称されるゆえんであり、幕府の老中松平定信も一代の賢君と尊称し、その人格、治政に対しては、今日でも称賛の声が絶えません。また単に米沢藩中興の名君と仰がれるばかりでなく、代表的日本人として世界の人々からも崇敬されているのです。
鷹山公の遺骸は、米沢藩歴代藩主の墓所に葬られましたが、明治五年、上杉謙信公とともに米沢城本丸跡の上杉神社に祭神として祀られ、その後、松岬神社に祀られています。
伝国の辞一、国家は先祖より子孫に伝え候国家にして我私すべき物には無之候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物には無之候
一、国家人民の為に立たる君にして君の為の立てたる国家人民には無之候
右 三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日 治憲 花押
治広殿 机前受次て国の司の身となれば
うけつぎ つかさ
忘るまじきは 民の父母
なせばなる なさねば成らぬ 何事も
成らぬは人の なさぬなりけり
(文献・角屋 由美子)