鷹山公に学ぶ十点
一、藩主は”民の父母”でなければならぬと「慈愛」の政治を貫きとおした
公の政治は、常に「慈愛と思いやり」で裏打ちされていた。「藩主とは、民のための政をするもの」と明言し、その言葉どおり実行した。
藩主となった17歳のときに詠んだ和歌
受次て国の司の身となれば忘るまじきは民の父母誓詞(藩主となった年、米沢の春日神社と白子神社に納めた大倹約令実行、藩中興の決意の誓詞)・大倹約令の上意
伝国の辞(三十五歳で隠退するに当たり、次の藩主治広(養子)に与えた三カ条の心得。民主政治の原点を示す)
伝国の辞一、国家は先祖より子孫に伝え候国家にして我私すべき物には無之候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物には無之候
一、国家人民の為に立たる君にして君の為の立てたる国家人民には無之候
右 三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日 治憲 花押
治広殿 机前雨乞い
(明和八年(一七七一)六月、旱ばつのため、鷹山公自ら愛宕山へ登って愛宕神社に雨乞いの祈願をした)
二、自ら範を示した
一汁一菜・綿服・仕切料削減(江戸での藩主の総費用一、五〇〇両を、家督してすぐ二〇九両に減らした隠居後も増額を辞退し二〇九両で通した)
籍田の礼(中国の故事にならい、藩主自ら鍬をとって田を耕し、農業が大切な職業であることを領民、特に武士に示した)・敬神・敬師・孝行三、広く民意を問うた
上書箱(藩政、特に財政再建に対する意見を聞くため上書箱を設置)・会計一円帳の公開(これまで領民に知らさなかった藩財政の収支を公開) 樹蓄建議(衣食住、日用品資源の増産に対し、家臣たちから意見を求めた)
四、藩主は「権力ではなく責任」である。政策の実行には勇気をもって行った
大倹約令・寛政三年の改革(第二次藩政改革)、武士の開墾、および下級家臣二、三男の農村土着、七家騒動の処断(公や家老竹俣の政治に反対する七人の重臣が、公に強訴した事件。公は家臣たちに訴状を審議させ、政治に誤りがないことを確かめてから切腹、閉門などの処分を下した)
飯豊穴堰(飯豊の山腹をくりぬいて、玉川の水を白川に導入した大工事)
隠退の際、実子顕孝に贈った和歌
なせば成る なさねばならぬ何事も 成らぬは 人のなさぬなりけり五、将来を見通して計画をたてた
桑(養蚕用)・楮(製紙用)・漆(製ロウ用)を各百万本植える計画・農業用水路黒井堰の開設・機織の導入(米沢織のはじまり)凶作に備えて、備蓄米の増強、本草学者佐藤平三郎を招いて薬草園を開く。「かてもの」(飢饉に備えて、食用となる山野草や獣肉の調理法を書いた本、一、五七五冊を領内に配る)や「養蚕手引」の配布。
六、発想の転換を図った
新たな借入金による産業の復興・行政改革によって生まれた役人の余暇を休暇とし、内職を奨励・養鯉・温泉からの製塩。
七、「教育は国を治める根本」を信念とした
尾張(愛知県)の儒者 細井平洲の指導で、藩校「興譲館」を創設・「実用の学」を重視した教育方針・江戸や長崎への遊学奨励・医学校「好生堂」の設立と、蘭(オランダ)学の導入。
八、良き指導者に恵まれた
幼少年時代の傅役(養育係)三好善太夫(高鍋藩家老)の”訓言の書”を生涯守った。 少年時代の師蒿科松伯(米沢藩の侍医・儒者)鷹山公生涯の師細井平洲(折衷学派の儒者)
九、人材登用に秀でた
莅戸善政=小姓から町奉行〜小姓頭〜中老〜奉行(家老)
黒井半四郎=25石から勘定頭〜中之間年寄(250石)
丸山平六=近習から側用人〜大目付
高橋平左衛門=15石から江戸留守番役(300石)
神保蘭室=儒者から興譲館督学・大目付十、優れた補佐役を得た
竹俣当綱(奉行)
莅戸善政(小姓頭〜奉行)
黒井半四郎(中之間年寄)
丸山平六(大目付)
神保蘭室(儒者)鷹山公に学ぶ十点の中から
・鷹山公は「教育は国を治める根本」を信念とし藩校を再興された
興譲の出典と藩校興譲館について興譲
米沢の藩校興譲館の命名は細井平洲である興譲の出典は儒教の経典である四書の中の「大学」である
一家仁一國興仁一家譲一國興譲(一家仁なれば一国仁に興り一家譲なれば一国譲に興る)上の文からとった興譲は「譲を興す」と読み恭遜(敬いへり下る)の道を修行することであるわかり易く言えばへり下る心を養い、驕り高ぶる心を治めること
一、藩校の再興について
はじめの藩校は、五代綱憲公が元禄十年六月、(一六九七年七月)元細工町に孔子をまつる聖堂と学問所を創建したものです。儒者であり医者でもあった矢尾板三印が、以前に自宅に建てた聖堂を藩で改造し、その側にこれも藩で講堂を新築し、三印に運営を司らせて、藩の学問所としたのでした。しかし、財政難のため綱憲公の代で、この学問所は閉鎖されました。この学問所を藩校と称していたものと思われます。鷹山公は、この学問所跡を拡張し藩校を再興して、将来藩の中堅となるべき子弟の教育につとめたのでした。
二、「教育は国を治める根本」
「国造り」はまず「人づくり」からと考えられた鷹山公は、将来藩を背負ってたつ人材育成のために「興譲館」を建てられました。その目的は、平洲先生が示された「建学大意」に明らかであります。(「興譲館世紀」91〜96ページ参照)その中に、藩校を「興譲」と名付けた理由が述べてありますが、「大学」の中の「仁」の解釈は極めて難しいことです。儒教が最高の理想とするものは「仁」であるといわれいますが、学者によっては「仁」を「愛」と同義語と促えている方もいるようです。が、「建学大意」の中で、「仁」は一字で表記されず、「仁義」「仁心」「大仁」「仁厚」等の合成語(熟語)で述べられていますので、平洲先生が「仁」をどう解釈されていたかを窺うことはできかねます。「大学」の中の一家仁一國興仁一家譲一國興譲を、米沢藩に当てはめて、私流に解釈すれば次のようになりましょうか。
上杉家に仁譲の気風があれば、米沢藩はみなこれに倣って感憤し、仁譲の気風が興り、上杉家に遜譲の徳があれば、藩内はみなこれに倣って恭遜の道が興るであろう。
興譲館に学ぶ学生は、上・中級家臣の子弟だけですから、わがままで驕慢な、お坊ちゃん育ちが多く居たと思われます。この者達がそのまま成人して藩の中核を握るようになっては一大事ですから、平洲先生は「顕位貴職に仁義の人なくば、何を以って忠愛の徳を施し行うべき」と心配し、藩校では「己をへり下る心を養い、驕り高ぶる心を治める」興譲の精神を、徹底して教えようとしたのでした。「興譲館世紀」93ページの「卿大夫」は、藩の要職に在る者、或いは、将来その職に就く学生を指しているのでしょう。ここの件りは、非常に含蓄のある、平洲先生らしい表現と感服いたします。 上杉鷹山公資料館 酒造資料館東光の酒蔵(文責 小野 栄)